ショパンと祖国ポーランド VS.『革命』エチュード*ピアノ:辻井伸行

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ポータルサイトとはサイト紹介サイトでどんなコンテンツがあるのか

ポータルサイトとはインターネットにおける入り口のような存在で、一言でいえばサイト紹介サイトと説明できます。
現在のインターネットは、検索エンジンにアクセスしてキーワードで検索したり、SNSなどの投稿からリンクを辿って特定のページを開くといったアクセス方法が主流です。
ポータルサイトとはSNSがまだなかった時代に誕生したもので、例えばカテゴリ別にサイトを分類して紹介したり、リンクの掲載が行われていました。
リンクには、サイトの名前やどんなコンテンツを掲載しているかといった簡単な紹介が添えられており、クリックに応じてアップさせるカウンターが設置されているケースもありました。


ポータルサイトと一口にいっても、スタイルや掲載内容は様々でしたが、ウェブディレクトリと呼ばれる構造化されたリンクだったり、ニュースや辞書など様々です。
検索エンジンが顔のGoogleもかつてはポータルサイトだったといえますし、Yahooもポータルサイトとしての性格が強かったといえます。
今でこそ提供するサービスが多角化しており、単なるポータルサイトの括りでは説明できなくなっています。


現在ポータルサイトといえば、地域コミュニティーにおける地域別のコミュニケーションを提供する、プラットフォームを挙げることができます。
価値観が多様化する現代においても、同じ地域の人や同じ趣味を持つ人、同じ悩みを抱える人を求める傾向があります。
つまり、今のポータルサイトはそうした人達を繋げる存在、あるいは受け皿として機能しているといえるでしょう。


ポータルサイトの概念が一般的で通用していたのは、インターネットが大きな球体のようなイメージで、外から入って情報を手に入れる感覚があったからだと思われます。
インターネットが生活に溶け込みその一部となっている現在は、入り口にあたる存在がないので、ポータルサイトもまた存在感が薄まっています。
とはいえ、インターネットの初心者にYahooのようなサイトを紹介したり、使い方を説明するのは健在ですから、そういう意味では今もポータルサイトとして機能するサイトは健在です。

ショパンと祖国ポーランド VS.『革命』エチュード*ピアノ:辻井伸行
★ショパンと祖国ポーランド VS.『革命』エチュード*ピアノ:辻井伸行

★演奏家・作曲家として成功したショパンは、西ヨーロッパへと活躍の場を広げていく。
 1830年11月2日、指にはコンスタンツィア・グワドコフスカからの指輪、また祖国の土が入った銀の杯を携えショパンは旅立った。
 ヤヒメツキはこう記している。「広い世界に出ていく。こうでなくてはならないと決まりきった目的は、これからもない」。
 ショパンはオーストリアに向かったが、その次にはイタリア行きを希望していた。

★その後、11月蜂起が起こる。ショパンの友人であり、将来的には実業家・芸術家のパトロンとなる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。
 ショパンは一人ウィーンで音楽活動をするが活躍できなかった。ヤヒメツキはこう記す。 「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民学派的詩人へと成長したのである。この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである」。
 この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。

★1831年9月、ウィーンからパリに赴く途上、ショパンは蜂起が失敗に終わったことを知る。  彼は母語のポーランド語で「コンラッド(Konrad)の最後の即興詩のような、冒涜に冒涜を重ねた言葉」を小さな雑誌に書き込んで、終生それを隠した。彼は家族と市民の安全が脅かされることや、女性がロシア兵に乱暴されることを懸念していた。また「親切だったソヴィンスキ大将[注 59]」の死を悲しみ(ショパンは大将の妻に作品を献呈したことがあった)、ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪った。
 そして神がロシア軍にポーランドの反乱を鎮圧することを許したことに幻滅した。「それともあなた(神)はロシア人だったのですか」。  こうした心の痛みによる叫びは『スケルツォ第1番』『革命のエチュード』などを作曲した。

【パリ時代】 『ショパンのポロネーズ』  ショパンは1831年9月の暮れにパリに到着したが、このときはまだこの地に居を構えるか迷っていた。最初は、現在のパリ2区ポワソニエール大通り (Boulevard Poissonnière) 27番地に住み、翌1832年に現在の9区シテ・ベルジェール (Cité Bergère)、1836年に同ショセ=ダンタン通り38番地へ転居したように、実のところ彼は二度とポーランドに帰国することはなかったので、多くの「ポーランドの大移民」の一人となったことになる。

 1832年2月に開いた演奏会では、誰もがショパンを賞賛した。大きな影響力を持っていた音楽学者・批評家のフェティスは「ルヴュ・ミュジカル誌 Revue musicale」にこう記した。 「ここにいる若者は、完全なるピアノ音楽の刷新ではないとしても、とにかく長きに渡って希求されつつも果たされなかったこと、つまり史上かつてないような途方もない独創的発想を、誰かを範とすることなく成し遂げたのである」。
 その3ヶ月前の1831年12月には、シューマンがショパンの『ラ・チ・ダレム変奏曲 Op.2』を評して「一般音楽新聞 Allgemeine musikalische Zeitung」にこう記している。 「諸君、脱帽したまえ、天才だ。」
 パリでショパンは芸術家や他の著名人と出会い、才能を磨き名士として認められ、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、相当の収入を得た。

 彼はベルリオーズ、リスト、ベッリーニ、ヒラー、メンデルスゾーン、ハイネ、ドラクロワ、チャルトリスキ公、ヴィニー、アルカンらと交友関係を築いた。

 ショパンは熱烈なポーランド愛国主義者だったが、フランスではフランス式の名前を名乗っていた。フランスの旅券で旅行していたが、これはロシア帝国発行の書類に頼るのを避ける必要があったためではないかと思われる。このフランスの旅券が発行されたのは1835年8月1日であり、これを境にショパンはフランスの市民となった。

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