

取り上げるのは、生後間もなく被爆した1人の女性です。
15歳まで、被爆者であることを知らされなかった女性が
その後経験したのは、「病気」と「差別」でした。
江田島市に住む川中宏子さんは、今77歳です。
被爆したのは、生後2か月の時。記憶はありません。
両親が、その事実を語ることもありませんでした。
場所は現在の中区舟入幸町の自宅でした。
■川中宏子さん
「8月6日の朝、いつもは寝かされていい子してたらしいんですけど、
その朝に限ってすごく泣くらしいんです。
そばにあった服で体をつつんで、背負ったらしいんです。
トイレに入って、ものすごい爆風と、割れる音とかそんなのがあって」
大きなけががなかった母親に背負われ、
焦土と化した街で、家族を探し回ったと言います。
その後、今の安芸太田町に転居。体に異変を感じたのは、11歳の頃でした。
■川中宏子さん
「頭の中が霧がかかったようにもやがかかったようになりだしたんです。
学校の授業が全然頭に入らなくなって、
ある日先生が『君は勉強したくないなら家に帰っていいよ』って言われたんです。
勉強したくないんでなくて、頭に入らなかったんです。」
「被爆者健康手帳」が届いたのは、15歳の頃でした。
■川中さん
「これ昔の被爆手帳なんですけど。
なんの説明もなく、これは大切なものだから、カバンにおさめときないさいいう。」
20歳の時、夫の実家がある今の江田島市にやってきました。
そしてある日腹痛で入院。
帰宅後に聞いた、義理の母が近所の人と交わす会話を、忘れることが出来ません。
■川中宏子さん
「『ピカにおうたもんは、子どもは産まされんよ』って、いう声が自分に通って、
初めて『ピカ』っていう言葉を生まれて初めて聞いたんです。」
川中さんは、被爆者の体験をまとめた2冊の本に寄稿していました。
被爆者には子供を産ませられない。
そんな心無い会話を聞いて、病院での中絶を悟ったと言います。
■川中宏子さん
「この被爆手帳っていうのは、もう私はないほうがいい。
ほいで無意識のうちにびりびりに破っていました。
それがなかったら、自分ではピカに遭ってないって思い込んだんだと思います。」
その後、不安を抱えたまま2人を出産。
離婚と再婚を経て、3人の子の母になります。
50歳の頃から体の不調が目立ち始め、脳腫瘍を手術。
2014年に、「甲状腺機能低下症」で原爆症に認定されます。
そして被爆したときの様子を詳しく語ってくれたのは自分の叔父。
両親は、既になくなっていました。
■川中さん
「『原爆で死ぬるよりも、その後に生きていくのがどれほど苦しいことか、
どれほどつらいことか、わしには誰にも言わんかったけど、
お前にはそれを話しておきたい』って(叔父が)言ってくれたんですね。」
今も不整脈や高血圧などの症状があると言います。
そんな川中さんの、戦後77年の願い…。
■川中さん
「原爆にあったっていうだけで、人生がこんなにも
変わるもんじゃろうかないうのがいまだにまだあります。
若い人には、このような苦しみは二度とうけてほしくない。
それだけは祈ります。」
病と故なき差別に向き合った、人生を知って欲しい…。
それが、4年前から、8月6日に自の体験を証言する川中さんの覚悟です。
《2022年9月26日(月)広島テレビ『テレビ派』で放送》
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